今朝、父方の祖父が他界したとの連絡が入りました。

享年99。

病気らしい病気はなく、ほぼ間違いなく死因は老衰。

文字通りの大往生です。

 

死んだ祖父は90を過ぎても積極的に外に出歩くなど、元気な人でした。

父が多趣味で行動力があり、アンチエイジングを地でいっているのもルーツはここにあります。

しかしながらこの2・3年は家に籠りがちで、その衰え様はいつ逝ってもおかしくないほどであり、実際今年の夏の終わりには医師からもって1・2ヶ月の命と宣告されていました。

だからそれなりに覚悟をつけていたつもりだったのですが、いざなくなった知らせが届くと、心にぽっかり穴が開いた感じはするものです。

 

祖父はとにかく自分中心的な人で、人の話は聞かない、嫌なことはとことんやらない、一方的に話をして終わらせるなど、一言で言ってかなりめんどくさい人でしたので、身内のウケは正直よろしくなかったです。

特に晩年はそれに痴呆と難聴が拍車をかけ、人の事情などお構いなしに時を選ばす(どうでもいい内容で)電話をかけてくるなど日常茶飯事。

長男であるがゆえに世話をする立場となっている父と母はかなり辟易していました。

ですが私のことは初孫ということで非常にかわいがってくれていました。

祖父には私を含め、4人の孫がいるのですが、その中でも一番にかわいがってもらっていたとの自覚があります。

その中で祖父が名前をつけてくれたのは私だけ。

このことは私にとっての誇りであり、いつか自分に子供が生まれたら祖父に名付けてもらうことが子供の頃からの夢であり、目標となるほどでした。

一方祖父からも、成人してからは早く結婚してひ孫の顔を見せてほしいとずっとせがまれていました。

ですが結局、私が晩婚になったり、祖父自身が危うい身になったりするなどの困難がありましたが、最終的には息子が生まれ、念願が叶って名をつけてくれたのは無上の喜びとなりました。

晩年は祖父の身勝手な行動に私も正直辟易していたのですが、それでも自分にとって祖父とはどちらの方か問われれば、迷わず父方の方だと答えられます。

 

祖父は大正9年(1920年)8月16日生まれ、山口市の深溝が出身地で、旧姓は岩脇、三人兄弟の真ん中に生まれました。

とはいっても腹違いの兄は生まれた時点でほぼ成人になっているほど年が離れており、同腹の妹とも7歳差など、実質一人っ子であった期間が長かったため、そのことが今の自己中心的な性格の一因であったと父は推測しています。

その後経緯は不明ですが、石田家に婿養子として入ったそうです。

だから岩脇系石田家としては初代、私が3代目となります。

ちなみに東岐波に腰を落ち着けたのは祖父ですが、父は既にこの時9歳、私も小学校6年生になった時に引っ越してきましたから、生まれた時から東岐波に住んでいると言えるのは4代目となる息子が初めて。

3代立て続けに住んでいて、ここが故郷と胸を張って言えるのに奇妙なものです。

 

他の身内が県外ですぐには駆けつけられないため、通夜は私たち家族と両親、存命中の大叔母とその娘夫婦などこじんまりとした感じで執り行いました。

棺の中の祖父の顔立ちは整っており、元から衰えていたこともあって今にも目を覚ましそうでした。

それでも不思議なことに、通夜の前まではどこか祖父の死を認めきれない思いがあったところが、すんなり祖父の死を受け入れてしまう自分がいました。

いろいろと身内を振り回した祖父でしたが、息子は2人、孫が4人、そして5人のひ孫の代まで生き抜いて最後は老衰による死でしたから恵まれた生涯だったと思います。

私にとって心残りがあるとすれば、お互いの都合がつかなかったとはいえ、息子と娘を数えるほどしか会わせていなかったこと。

そのために娘は仕方ないとして、息子がまだ3歳であるため、祖父(息子にとっては曽祖父)の思い出が残らない可能性が高いということ。

ですから息子と娘がいつか大きくなったら、私が知る限りの祖父の話をしてやろうと思います。